お魚をつかまえろ!

頭のなかに浮かんでくるお魚(アイデア)たちを、沈んでしまう前に釣り上げるブログです。

ブログリハビリ(3) 近代の国民国家形成って、小さなグローバリゼーションやったんと違うやろか?

こんばんは。

 

いま、釜山にいます。外は雨です。

 

でも観光地案内もグルメレポートもしませんよ、今日も図書館におったからね。

 

で、パク・ハシク(2013)『グローバル人材を作るのは学校が答えだ』グロセウム(박하식. 2013. 《글로벌 인재 만들기 학교가 답이다》. 글로세움.)という本を読んだんですね(実はちょっと覗いただけ)。で、せっかくやからEvernoteにメモでもしとくか、と書き始めたら400字詰め原稿用紙5枚分くらいになったので、なんかもったいないからブログにあげとこか、と思いまして。

 

以下、文体も構成もむちゃくちゃですが、どうぞ。

 

 

最後の方をちょろっと読んだだけだが、潘基文が世界的に信頼できるリーダーに選ばれたことを話題の皮切りに、学校における教育とはいかなるものであるべきかを議論していた。

 

学生たちに押し付けるのではなく自らの力で大きな夢を抱かせ、教育の目的を教師と生徒がともに話し合い、しかも世界でリーダーシップを発揮できるような大人になってもらおう、と。教師はそんな学生たちの姿を見るのが喜びではないか、と。

 

結構な話だが、そんなエリートを育てることだけが教育なのか? 夢は大きな方がいい。それが本当に「腹の底から湧き上がってきたような」夢であるならば、それを追いかけて毎日勉強するのは楽しいことだろう。しかし、子どもというのは誰もが最初はそんな感じなのではないか? 大人になるまでのどこかの時点で挫折したり、諦観したりして、気がつけば死んだ魚の目を持ってしまうのではないか? 目的を話し合うとは言っても、グローバル人材を云々している時点で漠然とながら方向性は決まってしまっているではないか。自分の生まれ育った土地で(これは国などという大きな枠の話をしているのではない。もっと小さな近隣地域単位の話だ)いかに幸せに生きられるか。それにだって創意性が必要だと思うのだが。

 
なぜグローバル人材を学校が作らなければならないのか? 学校というのは近代国民国家システムの制度の一つとして設置されるものだ。どれだけ言い訳しようと、国立であろうと公立であろうと私立であっても、それが学校である限り国民国家システムの機能要件なのだ。つまり、国民を作るところが学校だということである。国民をグローバル人材にするというのであるから、ドメスティックな人々をグローバルにしようというわけだろ? もし成功すればその人たちはローカルな文脈とは離れた人々になるのではないか?
 
ううむ、頭のなかにあるものを何とか文章にしようとしているのだが、どうもしっくりこない。
 
グローバリゼーションの道を文字通り愚直なまでに邁進するのであれば、国(政府)がいかなる責任をもって人間を教育する必要があるのか? グローバリゼーションの時代における国民国家とは果たして何か?
 
グローバリゼーションが作動するには明確な国境・領土・国民を持った国民国家が不可欠だと言っている人がいるとかいないとか。逆説的でとっても面白いと思うが、国民国家の成立と発展の歴史をグローバリゼーションの潮流と平行に見てみると、それはおかしいな、と思わないかな。つまり、国民国家の成立とは小さなグローバリゼーションみたいなもので、中央政府ができ、国境が定められ、国境内にいる人々は教育、交通、通信手段、メディアの発達と共通語の形成(強制)により国民となった。元来は各地域でそれぞれに暮らしていて、米や貨幣の流通は多少あったにせよ、そんなに広い地域の人々が一体であるとは(つまり自分たちの仲間であるとは)思っていなかったのではないか。一つ山を超えたら、一つ川を渡ったら、よそ者の世界。それが国境内ならどこへでも移動できるようになり(せざるをえなくなり)、よそ者との交流が増すことで方言の違いを超えて付き合いが始まる。産業化は農村から人々を都市へと流入させる契機となった。次男坊三男坊で地元にいて食いっぱぐれるよりも都市へ出て働いた方が稼ぎがいいし、なにより都市は楽しい。もちろん辛いこともあっただろうが、自分と同じような境遇の者がまわりにいる。
 
さて、農村はどうなった? 地方都市はどうなった?
 
グローバリゼーションは土地からの「脱埋め込み」だとアンソニー・ギデンズが言ったか言わなかったか忘れたが、それでも人間が生きている限りどこか具体的な場所で立ち止まって寝たり起きたり飯食ったりせなあかんやろ。大量の人間が絶えず移動しているとはいえ、少なくとも9割の人間はどこかに留まっているやろ。そうすると、プル要因を持つ土地(これは都市と言ってしまって構わないだろう)に人は集中することになる。地方はいくら人を育てても、その子が優秀であればあるほど、都市に行ってしまいはせんかなぁ?
 
もちろん、日本でも韓国でも、グローバル人材の育成に関する官僚さんたちの作文のなかには必ず国民意識の醸成に関する文言が入っている。みんな心の底ではわかってるんや。そして、恐れてるんや。「この子ら、一回出て行ったら鉄砲玉で、二度とウチには戻らへんのと違うやろか?」と。