お魚をつかまえろ!

頭のなかに浮かんでくるお魚(アイデア)たちを、沈んでしまう前に釣り上げるブログです。

ブログリハビリ(1) 英語教育に関する新自由主義と福祉国家主義の錯綜

おい。

 

年が開けているぞ。しかも2日だ。

 

ということで何も考えずに投稿しようと思う。

 

最近は韓国の釜山広域市議会議事録ばっかり読んでいた。

 

大阪には去年(2015年)11月19日に「OSAKA ENGLISH VILLAGE」というのがオープンし、平成30年(2018年)には東京都も英語村を作るらしい。韓国では10年以上前に英語村創設ブームがあって、現在では、例えば韓国初の英語村である「京畿道英語村安山キャンプ(2004年8月オープン)」が2012年12月には財政負担の悪化により閉鎖されるなど、それほどうまくいっていない。そんななかで日本は今から英語村を作ろうというのであるから大したタマなのであるが、比較的うまくいっている(と言われている)英語村「釜山グローバル・ビレッジ」はどういう経緯で作られたのかなぁ、という関心から議事録をひっくり返しているのである。

 

面白いなぁと思うのは、「世界に釜山のブランド価値をしらしめるんじゃ!」「グローバル時代の人的資本育成をするんじゃ!」と言っている一方で、ものすごく低所得層に対する配慮をしようとしているところ。新自由主義的発想と福祉国家主義的発想の混在というか、混沌というか、錯綜というか、とっても複雑なのである。韓国では小学生が母親と一緒に英語圏に留学する早期留学というのも広く行われているのだけれど、そんなもんは金銭的に余裕がなかったらできんもんで、中流家庭では母と子が英語圏に行っているあいだ父親は韓国国内で働いて留学資金を調達するという「キロギ・アッパ」なんてのが社会問題化してたりして、低所得層はそんなことすらできなくて、という教育格差状況を解消する方策として英語村が考えられているわけ。

 

ところで、一般の人たちは他人と差をつけるために色んなことをやっている。教育=学習というのもその一環で、資格を取得するとか、英語力をつけるとか、MBAをとるとか、そうすることで「何かができるジブンになる」というよりは他人との違いを示すための印を求めている。それは選抜される機会に有効に働くと信じられているからだ。

 

これらが差異の印として機能しなくなったらどうなるだろう? 誰もそんなものに見向きもしなくなる。

 

英語駆使能力(ごめんね、これ完全に韓国語の表現だわ)に価値があるのはそれを持っている人が少ないからであって、それが実際の生活や仕事に有用だからではない。もちろんそれが有用であることが信じられていなければ価値をもたない。そのへんのメカニズムを解明せんといかんのやろうけど、難しいね。

 

正月から何を書いているのだ。ゴチャゴチャやないか。

 

リハビリの一環なので勘弁して下さい。あ、あと、何かタイトルをつけなアカンかったので付けてみたら、とってもおカタイものが私の指から流れ出てまいりました。竜頭蛇尾とはこのことやで。