お魚をつかまえろ!

頭のなかに浮かんでくるお魚(アイデア)たちを、沈んでしまう前に釣り上げるブログです。

ブログリハビリ(3) 近代の国民国家形成って、小さなグローバリゼーションやったんと違うやろか?

こんばんは。

 

いま、釜山にいます。外は雨です。

 

でも観光地案内もグルメレポートもしませんよ、今日も図書館におったからね。

 

で、パク・ハシク(2013)『グローバル人材を作るのは学校が答えだ』グロセウム(박하식. 2013. 《글로벌 인재 만들기 학교가 답이다》. 글로세움.)という本を読んだんですね(実はちょっと覗いただけ)。で、せっかくやからEvernoteにメモでもしとくか、と書き始めたら400字詰め原稿用紙5枚分くらいになったので、なんかもったいないからブログにあげとこか、と思いまして。

 

以下、文体も構成もむちゃくちゃですが、どうぞ。

 

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ブログリハビリ(2) 「グローバル人材」について不思議に思うこと

グローバリゼーション、ってよく聞くようになって久しいやんか。グローバリゼーションを「ヒト・カネ・モノ・情報が特定の土地や国境を問わず地球上を駆け巡る様相が進展し、経済的・政治的・文化的相互依存の度合いが高まること」くらいに軽く定義付けしておくが、日本もご多分に漏れずグローバリゼーションの潮流の最中にあって、そらもぉ大変ですわ、でもチャンスですわ、バスに乗り遅れたらオイシイとこをみんなヨソさんに持って行かれますわ、というのがグローバリゼーションに関する議論であるかと思う(たぶん、そんなん)。

 

で、企業さんがやたらと「グローバル人材」たらいうものを欲しがっているそうで、いま、国を挙げて「グローバル人材」を育成しようと役人さんたちがいろいろ作文しては公表し、それに沿って仕組みを作ってなさる。

 

で、どんな「人材」を欲しがっているのかなぁ、とググってみると、経団連がこんな調査結果を公表してるねんね。

 

「グローバル人材の育成・活用に向けて求められる 取り組みに関するアンケート」主要結果

 

もっと簡単にリンクを貼り付ける方法があるんでしょうね、でも、オレ、おっさんやからよく分からなくて、HTML編集で直接タグをつけたよ。

 

で、463社に対するアンケートの結果、「企業が目指すグローバル事業展開の類型」として製造業は「グローバル最適型」、非製造業は「海外拠点・店舗展開型」がそれぞれ目指すものやってんて。これ、そもそも調査としてアカンのは製造業と非製造業では目指す事業展開の類型が異なるので、単純に比較できないということ。どんな調査票を使って、どんなコーディングして、どんな集計してん。

 

まぁ、この結果から漠然と言えるのは、どの企業も「海外に支社や支店出したり、海外企業と提携したりして、資源・人材・技術の交流がしたいわぁ」と思っているということ。ふーん。

 

で、じゃあ、そんな事業展開をするさいにどんな人材を求めているのかというと、「海外との社会・文化、価値観の差に興味・関心を持ち、柔軟に対応する姿勢」を備えた者なのだそうな。へぇー。何か、この調査結果、何にも面白いこと教えてくれへんな。

 

いや、ただ1つ、面白いのがあった。それは、求める人材の素質・能力として最もスコアの低かった回答が「日本文化、日本史、世界史、哲学等に関する知識」やってんけど、これに対する報告書の解釈。

 

他方、日本文化や歴史に対する知識を指摘する回答は少ないが、これらは初等中等教育段階で教育すべき課題の上位に指摘されており、身についていることが前提となっていると考えられる。

 

引用。またこれも便利な機能があるんやろうな。でも、オレ、おっ(以下略

 

なんかね、不思議やなぁと思うのは、なぜそんなことを前提にして平気な顔をしていられるのか、ということ。

 

おたくらの欲しい「グローバル人材」たらを育てようと思たら初等教育中等教育から真っ先に「日本文化、日本史、世界史、哲学等に関する」教科が削られるんと違いますやろか? で、その空いたコマに放り込まれるのが「外国語教育」ね。実質、英語ね。ほんま、外国語の習得をなめたらアカンで。使えるようになるにはごっつ時間かかるで。せやから、「日本文化、日本史、世界史、哲学等に関する」勉強なんかしてるヒマはないで。

 

するとどうなる?

 

前提としていた「日本文化、日本史、世界史、哲学等に関する知識」を備えた者はやってこなくなるよ。

 

オレ思うねんけど、こういう企業のオッサン・オバハンらは「日本に生まれて育ったからには自分たちと同じ文化や知識を共有しているはず」という安易な発想をしてるんやないかなぁ。もっと言えば、「日本に生まれ育ったんやから、まさか海外に出て行きたがらないだろう」とボンヤリ信じてるんやないかなぁ。

 

「グローバル人材」という表現について不思議に思うのは、もしそんな「人材」が育ったとして、日本の企業を放り出す、日本そのものから抜け出てしまうかもしれない、となぜ思わないんやろ、ということだ。おたくらから見たら「人材」でも、やっぱり「人」やで。お他人さんやで。「人」はいろんな思惑で生きてるねんで。グローバルに活躍できる能力を備えた者がなぜ、もっと条件の良い外国の企業に移らず、おたくの会社に残って働いてくれると信じられるんやろ? 

 

グローバリゼーションを理念通り、定義通りに愚直に進めていったら、それこそ国内企業やの海外企業やのという区別そのものが意味をなさなくなるはず。すべての「ヒト・カネ・モノ・情報」が流れることによって、それによってのみ成立する世界のなかで、どんだけそれらを一時的にでもストックすることができるんやろうね。

 

うむ、今日も1,900字くらいリハビったわ。

ブログリハビリ(1) 英語教育に関する新自由主義と福祉国家主義の錯綜

おい。

 

年が開けているぞ。しかも2日だ。

 

ということで何も考えずに投稿しようと思う。

 

最近は韓国の釜山広域市議会議事録ばっかり読んでいた。

 

大阪には去年(2015年)11月19日に「OSAKA ENGLISH VILLAGE」というのがオープンし、平成30年(2018年)には東京都も英語村を作るらしい。韓国では10年以上前に英語村創設ブームがあって、現在では、例えば韓国初の英語村である「京畿道英語村安山キャンプ(2004年8月オープン)」が2012年12月には財政負担の悪化により閉鎖されるなど、それほどうまくいっていない。そんななかで日本は今から英語村を作ろうというのであるから大したタマなのであるが、比較的うまくいっている(と言われている)英語村「釜山グローバル・ビレッジ」はどういう経緯で作られたのかなぁ、という関心から議事録をひっくり返しているのである。

 

面白いなぁと思うのは、「世界に釜山のブランド価値をしらしめるんじゃ!」「グローバル時代の人的資本育成をするんじゃ!」と言っている一方で、ものすごく低所得層に対する配慮をしようとしているところ。新自由主義的発想と福祉国家主義的発想の混在というか、混沌というか、錯綜というか、とっても複雑なのである。韓国では小学生が母親と一緒に英語圏に留学する早期留学というのも広く行われているのだけれど、そんなもんは金銭的に余裕がなかったらできんもんで、中流家庭では母と子が英語圏に行っているあいだ父親は韓国国内で働いて留学資金を調達するという「キロギ・アッパ」なんてのが社会問題化してたりして、低所得層はそんなことすらできなくて、という教育格差状況を解消する方策として英語村が考えられているわけ。

 

ところで、一般の人たちは他人と差をつけるために色んなことをやっている。教育=学習というのもその一環で、資格を取得するとか、英語力をつけるとか、MBAをとるとか、そうすることで「何かができるジブンになる」というよりは他人との違いを示すための印を求めている。それは選抜される機会に有効に働くと信じられているからだ。

 

これらが差異の印として機能しなくなったらどうなるだろう? 誰もそんなものに見向きもしなくなる。

 

英語駆使能力(ごめんね、これ完全に韓国語の表現だわ)に価値があるのはそれを持っている人が少ないからであって、それが実際の生活や仕事に有用だからではない。もちろんそれが有用であることが信じられていなければ価値をもたない。そのへんのメカニズムを解明せんといかんのやろうけど、難しいね。

 

正月から何を書いているのだ。ゴチャゴチャやないか。

 

リハビリの一環なので勘弁して下さい。あ、あと、何かタイトルをつけなアカンかったので付けてみたら、とってもおカタイものが私の指から流れ出てまいりました。竜頭蛇尾とはこのことやで。

タイトルについて

6月が始まった。ちょうどキリがいいので久し振りにブログをはじめてみる。

 

タイトル『お魚をつかまえろ!』は「ブログをはじめる動機を端的に表現する言葉はないかのぉ」とボンヤリ考えていて、ふと思い出した木村泉さんの『ワープロ作文技術』(岩波新書、1993年)から頂いた。読んだのはずいぶん昔の話で、詳しい内容は忘れてしまったのだが、おおよそ、

 

「お前の悪い頭にでも、たまには『おおっ!』ちゅうアイデアが浮かぶやろ? でも、気ぃ抜いてたらすぐ忘れてまう、基本的にアホやからな、お前は。せっかくええアイデアやったかも知れんのに、もったいないやろ? ええか、その、一瞬浮かんではすぐ消えてまうアイデアは、いわば頭のなかにある『地底湖』に住む『お魚』や。『お魚』は湖面に浮かび上がってはすぐに湖底に沈んでしまう。今度いつその『お魚』が浮かび上がってくるかはわからん。そこで、目ぇが3つある『お魚』やろうと、人面魚やろうと、浮かび上がった『お魚』は針と糸とで引っ掛ける(メモ)んじゃい!」

 

ということだったと思う(注:「」内の文は原典からの直接的な引用ではなく、あくまで当方のボンヤリした頭のなかに微かに残っている記憶を文章化したものであり、木村さんには責任がないことを申し添えておく)。

 

 なるほどなぁ、とね。今でこそ山ほど知的生産術に関する本が出版もされ、ブログなどに書かれしているが、20年前にはそんなになかったもんね。定番として、清水幾太郎の『論文の書き方』(岩波新書)、梅棹忠夫の『知的生産の技術』(岩波新書)、木下是雄の『理科系の作文技術』(中公新書)やったかな。もちろん他にも数冊あるけど、ややこしいので割愛する。

 

とにかく、「お魚」を少しでも釣り上げていこうか、というのがタイトルに込められた意味である。